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  彦部家の祖は家伝の「高階朝臣家譜」によると、天武天皇の第一子、高市親王となっている。だからその歴史も、天智天皇の大化の改新から書きおこされるという壮大さ。高市親王は壬申の乱で戦功を立て、持統朝には天皇に継ぐ地位 の太政大臣にまで上った。その子長屋王は、藤原氏の奸計(かんけい)にあってか非業の自害。律令に従って高市親王から六代目で臣籍降下、高階姓となった。
 古代史も身近に感じられてくるが、「万葉集」にこれら遠祖の歌があったり、「伊勢物語」にも記された在原業平と斎宮恬子との不義の子が登場したり、一族の孫娘定子が一条天皇の中宮に入って「枕草子」の世界にもかかわるなど、文学もリアルになってくる。
 平安時代後期、時は武士の時代に移り、高階家第14代惟章(1053〜1107)は武士として下野国佐久山館(栃木県太田原市)に下向、この地を統治する。そして、その娘と奥州征伐途上の源義家との間に生まれた惟頼(1089〜1140)が高階姓を継ぎ、これによって源氏の血脈が高階氏につながる。

 惟頼は奥州検断職を命ぜられいわきに赴任。惟頼の後、数代この地で過ごし高階家第21代光朝(1216〜77)の代、奥州斯波郡彦部郷に移りこの地を領有して土地名をもって彦部姓を名乗った。
  嫡男光継(1247〜1316)は 鎌倉幕府の招きに応じて同族をこの地に残して出府、幕府のじっきん衆となり、死後鎌倉五山の一つ浄妙寺に葬られた。
  その後、足利尊氏が幕命に従い西上するのに光継の嫡男光高(1289〜1336)も同行し上京。
  時代は変遷、九州から尊氏は東上して楠木正成、新田義貞軍を湊川で打ち破ったが、彦部光高は足利尊氏軍の一員としてこの地で討死。(湊川の戦い)
  嫡男光春(1317〜55)は室町幕府成立と共に重用され、以降代々将軍の直臣として仕えることとなる。
 第3代義満の時、彦部家第7代忠春(1354〜1435)は金閣寺造営の作事奉行を勤め、南北朝合体(1392)を成し遂げた義満が3年後出家して受戒すると、忠春も落髪受戒し義満と共に京都北山第に閑居したと伝えられ、忠春は81才の生涯を終り、死後鹿苑寺塔頭龍華院が建てられ開基となった。
 従四位以下雅楽頭彦部晴直(11代1507〜65)は、足利家第10代義稙・第11代義澄・第12代義晴・第13代義輝の4代の将軍に仕えた。晴直の母は近衛関白政家の娘で、政家の室は足利家第8代義政の姫であって、ここで彦部家は近衛関白家並びに足利将軍家と結びつくことになる。
 時を経て、世は戦国時代、関東下向した近衛前嗣親子が上杉謙信に追随し、桐生城入りしたが、それに同道した彦部信勝は、近衛親子の帰京後も桐生市広沢に留まった。永禄四年(1561年)のことといい、ここでは戦乱に明け暮れた桐生氏、由良氏どちらとも距離をおいたようだ。父の雅楽頭晴直、兄輝信の戦死は永禄八年であり、以後彦部家は広沢の地で継がれていく。関ヶ原の合戦には屋敷から竹竿380本を、旗絹とともに献納、それによって桐生領54ヶ村は賦役御免になったという。
 以後は傍系もふくめて詳しい記述がある。農業経営のかたわら国学・和歌、薬学、華道に通 じた文化人たちもおり、屋敷の一角には寺小屋「松広学舍」も設けられた。
 桐生織物との関係では、市の文化財に指定されている足利義輝の侍女・小侍従からの注文書(写真右)が知られるが、やがては織物経営だけでなく他産地との競合や輸出などで桐生織物自体の浮沈するなか、産地の指導者として大きな働きをする人材も輩出する。明治元年に亡くなった知行(1788〜1868・広沢彦部氏10代)は、黒儒子の創織で知られる。綿・人絹交織の「文化帯地」を製織、昭和前期に県会議員、桐生織物同業組合長として活躍した駒雄(1878〜1936・広沢彦部氏14代)も傑物だった。
  また、江戸に出ていたものの家のために離縁してまで帰郷、さらには大不況で困窮したため屋敷を留守にし、大間々の質屋に入って再起をはかったのが駒雄の父・彦四郎で、歴史の家存続の苦労と、それにもかかわらず家宝を秘蔵し切った執念が、今日の「歴史の家」なのだ。